小さな分水嶺 平沢峠

小さな旅
<雲一つない平沢峠 身近なお薦めスポット>

photo by S.Nozaki

☆いつもは見えない世界が広がる

草刈りの最中に唇の上を虫に刺されて、整形でもしたのかと思うほど(実際したことはありません)腫れ上がり、いつもは爽やかな鳥のさえずりも蝉の鳴き声も鬱陶しく感じていたとある朝、気晴らしに標高1450Mの平沢峠まで短いドライブに出かけた。141号線を上り野辺山からの峠道入り口には、標高1375MのJR最高地点碑が立っているのでそれを目印に愛車ハスラーを駆けた。

この季節は午前10時を過ぎると雲が湧き上がってくるので8時に家を出て、ちょっと道に迷いながらも8時半には峠到着。未だ雲の姿は一つも見えず青空に浮かび上がった素晴らしい山々の景色を堪能した。峠横の獅子岩に立つと左手に八ヶ岳から南アルプスまでの緑濃い山並み、右手には佐久平に続く山並みが一手に収まる。雄大なパノラマを抱きかかえることが出来る峠である。

<八ヶ岳連峰を一望>
・硫黄岳から権現岳まですべて横一線に望める絶景だ

Screenshot

<3000M級の南アルプスと八ヶ岳裾野>
・ナウマン博士はこの地形を眺めていたのか~

Screenshot

<野辺山天文台と佐久方面を望む>
・左奥に見えるは浅間山かな?

Screenshot

 

古くは甲州韮崎から東信佐久を結ぶ街道の重要拠点であったため、何名かの農民が移住させられてその整備に当たったと聞く。大変だったろうなぁ、この辺りの整備は。気候が厳しく、石と岩が多く、夏は虫だらけ。それに今も熊が出没する位だから当時は怖かったろうなぁ。奥多摩湖が出来る時に清里に移住し開拓にあたった方々を思い出す。その古道の役割は141号線がとって代わり、更には長坂-八千穂間を結ぶ中部横断自動車道が計画されている。今やごく僅かな古道の残りが当時を偲ばせるだけとなっている。

また、この峠は北は日本海へ、南は太平洋への分水嶺となっている。雨水の一生の分岐点だ。日本は北海道から九州まで中央分水嶺が繋がり日本海側と太平洋側の水系に分かれる。この背骨が弓の様にしなっている中央分水嶺が日本列島の特徴だ。昔(昭和初期ぐらいまで)、サンカと呼ばれる山の民が山中の径だけを通って、様々な場所に移動して生活していたと言い伝えられているのはこの中央分水嶺:日本の背骨があったためだろう。

<日本の背骨の一部>
・こうした峠巡りも面白そうだ

photo by S.Nozaki

因みに、八ヶ岳南麓で反対運動がある「中部横断自動車道」長坂~八千穂間は、位置的・感覚的には縦断道ではあるが、この背骨を横切っていく道路なので横断となる。日本の道路名称は、日本列島を縦断する背骨を横切るか平行に走るかによって、横断・縦断と名称がつけられている。

そんな峠に佇み、ここで冷えたビール飲みたいな~等と愚考していると大変興味深い看板が目に付いた。1875年ドイツのナウマン博士がこの場を訪ね、3000M級の南アルプスの山々が一気に落ち込んで大きな溝状の地質構造を作り上げているのを目の当たりにし、フォッサマグナ(大きな溝)を発想したとのことだ。大昔、日本列島が折れて凹み、そこに新しい地層が堆積したのがフォッサマグナと理解しているが、成程、此処から眺めるとその新しい地層が大きな溝、いわゆる糸魚川―静岡構造線を作り上げているのが何となく分かる。南麓から野辺山、佐久、小諸、上田もその一部だろう。偉人の観察力・感性は常人では思いもよらないが、もしかしたら山の民、サンカもこの峠を越える時にナウマン博士と同じ景色を眺めて、東北の山脈や中部・中国の山脈と何かが違うと「大きな溝」を感じ取っていたかも知れない。凡人は冷えたビールを飲みたいと思うのみである。

<偉人が発想を得た峠からの眺めを記す>
・ポール・ラッシュ氏の他にも縁深い人がいたんですね

photo by S.Nozaki

凡人も峠のパノラマ風景を眺めていると、自分の人生は周りに支えられてこの峠までは到着出来たなぁ~、頂きは先に見えるけどこの辺でもう休むか~、次はどちら側に下りようか~、等と人生になぞらえてしまう。「峠を越える」には陰りが見えるとか、衰えが見られる等の意味の他に、山場を乗り切るとの意味もある。一応私も人生の山場は乗り切ったつもりだから、これからは峠の先の新たな風景をじっくりゆっくり楽しみます。
野麦峠、大菩薩峠、碓氷峠、権兵衛峠・・・、そこに佇んだ時どんな思いがよぎるかなぁ~。

コメント