photo by S.Nozaki
~しかしながら新たな開拓民の人達の苦労の歴史も~
此処八ヶ岳南麓に居を構えて周辺の山々の景色に随分と心を洗われてきたが、同様にこの地域の水の豊かさには生活の豊かさを感じ自分も恩恵を受けてきた(うちは井戸水を使用している)。近くを流れる西川は常に流れが清く豊富であり、岩魚も放流されているほどだ。そこから分離する農業用水はあらゆる田んぼの脇を流れ、稲を潤していく。
<我が家の近くを流れる西川>
・側道を散歩するときは夏でも涼しい憩いの場所
こうした流れを生み出すのは八ヶ岳連峰の主峰「赤岳」の伏流水。なんと1000年近く前から当地では堰(せき)を設けて水を分け譲りながら暮らしてしていたそうだ。農業用水の取り合いで上流と下流の村が争いをするなどは当たり前の時代があったようだが、此処南麓では六つの村がお互い堰を設けて水の流れを作った「村山六ケ村堰」が豊かな村づくりに貢献した。私の住んでいる「村山北割」、働いている果樹園のある「堤」、そしていつも散歩をする「村山東割」「村山西割」「蔵原」「小池」の六つの村に絶えることなく水を提供し今日に至っている。
<六ヶ村堰(ろっかむらせぎ)記念碑>
・2016年に世界かんがい施設遺産に登録された
分水の堰には石碑が建立されており、その周辺はいつもきれいに整えてあり、雑草が生い茂ることもない。地元の方々がとても大切にしているのが分かる。夏は流れに乗った風がとても心地よい。その分水からはまるで毛細血管のようにあちこちへと農業用水として流れ込み田畑の作物に命を与える。先日晴天が続く中、用水路近くの林檎畑での水やりをしたが、バケツで用水路からくみ上げて非常に効率的な水やりが出来た。林檎は生き生きと生き返った。一方、用水から遠い新しい桃畑に水やりをする仕事では、トラックの荷台に20リットルバケツ15個を乗せて果樹園の水場との間を5往復した。炎天下、これは大変だった。昔はトラックもなかったろうから水場から遠い田畑では大変な苦労があったと思う。
苦労と言えば、小河内ダム(東京都民の最後の水がめ『奥多摩湖』を形成している)で水没した村:小河内村・丹波村・小菅村から清里に新たな開拓民として入ってきた人々の苦労は大変なものだったそうだ。水場から離れた場所に入植し、天秤棒で湧水地と家の間を何往復もした話を聞く。トラックでの5往復などは贅沢な話だろう。東京都民の水のために、生まれた地を追われて新たに入植した場所で水の苦労をする。何とも切ない話だ。
これらの開拓話は「清里開拓物語」に詳しい。
縄文時代から人が住んでいた豊かな八ヶ岳南麓、一方で、新たな開拓で苦労した人々。これからの勉強のテーマにしてみよう。
<清里開拓物語>
・ここ北杜市では住民票がなくても市の図書館で借りられます
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